コニシ営業部長ゴメンナサイ。
数年前に営業の仕事をやったことがあった。なかなか面白い仕事で面白い職場にいたのだが、如何せん飽き性なもので数年で辞めてしまったが。
その職場に50代後半の上司がいた。名前をコニシ営業次長としておく。まぁものすごくおしゃれな人で見た目も雰囲気も岡田真澄にそっくりだった。日本の片田舎の普通の農家で育ったはずなのにやることなすことがおしゃれ。フランス人の血でも混じっているのかと思うくらいだ。
というのも、貧乏な学生の時はフランスパンとワインで飢えをしのいだというし、ランチミーティングの時はほぼイタリアンの店という頭の先から爪の先までおしゃれ、まさに岡田真澄、という人だった。もちろん、営業における会話も澱みなくしなやかでスマート。おじさん同士の会話特有の「ガハハハッ」なんてことは一切ない。そんなコニシ営業次長を半ば崇拝し、「どこまででもついていきます、営業次長様~~」と頼りにしていた。
そんなある日、急用で休むことになったがその日はどうしても外せない企業訪問のアポイントが入っており、コニシ営業次長に代わりに行ってもらうことになった。法的な問題でほかの部署からも1人応援が来ることになっていたのだが、転勤したてのその人はコニシ営業次長と面識が無かったので、待ち合わせ場所とコニシ営業次長の車種、そして最後に一言、「岡田真澄にそっくりだから、すぐにわかりますよ」と付け加えた。
次の日、応援に来てくれた法務部の人にお礼の電話をかけたら、「もう、岡田真澄なんていうからッ、ぜんぜんわからなかったじゃないですかッ!どう見てもジャムおじさんでしょ!」といきなり叱られた。「何言ってるんですか~どう見ても岡田真澄です」と譲らなかったのだが、後日、その思いが覆ることになろうとは。
ある新規の企業を持たせてもらえることになり、コニシ営業次長とその企業の工場へと出かけたときのこと。その工場では工場内で白い帽子をかぶらないといけない決まりになっており、外部の人間ももれなくその帽子をかぶることになった。その帽子が戦時中にかぶった帽子の形をしていて、それでいて真っ白なものだった。やれやれ、スーツにこの帽子は似合わないだろうなと思いながらかぶり、コニシ営業次長のほうを見ると、見た瞬間に吹き出しそうになった。コニシ営業次長のサイズに合う帽子が無かったらしく、次長は頭の上にちょこんと白い帽子を載せていただけだった。笑ってはいけないと思うと余計におかしくなるのが悲しいかな人間の性で、このシチュエーションの破壊力たるや。新規の取引先だからおかしく思われてはいけない、これは何か悲しいことを考えなければッと悲しいことを思い巡らすのだけれど、やっと思い浮かんだのは先日の「どう見てもジャムおじさんじゃないですか~~」あぁ、おかしさに拍車がかかり、笑いをこらえきれずに下を向くかそっぽを向いて黙っているしかなく、少しでも口を開けようものなら「アッハッハッハ~」と笑い声が飛び出してきそうで、鼻で細々と息をするのがやっとだった。商談も笑ってはいけないということだけが頭の中を駆け巡り、何の話をしたのかも正直覚えていなかった。あの後、逃げ出すように一人になり、「アッハッハッハ~、ヒーヒー」と笑い転げて発散させたのは言うまでもない。
この日から数日は、コニシ営業次長の姿を見ると笑いをこらえるのに必死だった。なんとも失礼な話。
コニシ営業次長、ごめんなさい。
世のなかの不条理を教えてくれたスミコちゃん。
スミコちゃんは、小さいころから賢くて物覚えが良くてスポーツもできた。保育園のころは何冊分かの絵本を一字一句間違えずに空で読めたし、小学生の低学年ですでに犬棒かるたと百人一首は全部覚えていたと思う。たまにTV番組に出てくるもの凄い記憶力の持ち主の小学生みたいに。
習字は上手で書初めではよく入選していたし、普段書く字も大人みたいに(行書だった)奇麗だった。
ピアノも小さいころから習っていて、小学生の高学年の時は、ピアノの苦手な担任の先生に代わって音楽の時間はずっとピアノの担当だった。中学生の時はスミコちゃんが作詞作曲したクラスの唱歌を合唱コンクールで歌ったこともあった。
クラブはテニスをやっていて、頑張り屋さんなこともあって普通にレギュラーになれた。
得意の記憶力は勉強だけじゃなく、林家ぺーみたいに芸能人の誕生日は言えたし、当然クラスの子全員の誕生日も言えた。
こんなにすごいスミコちゃんだけれども、ただひとつだけ苦手なことがあった。
美術関係である。というか美的センスというか。
解りやすいのが彼女の服装で、これはちょっと違う人なのでは・・・と察しがつくのである。大人になった今でも小学生のころから変わらず、カントリー柄の長めのギャザースカートを履いている。一度彼女の職場で見かけたときは、仕事でもカントリー柄のスカートを履いていたので、ちょっと驚いて彼女に見つからないように物陰に隠れてしまったくらいである。(彼女は公務員)
中学生の時の夏休みの宿題では、毎年美術の先生をある意味唸らせていた。(美術の先生は3年間同じ先生だった)1年生と2年生のときは、中学生なのに保育園児のような水彩画を提出し、字はあんなに綺麗なのに絵はなんて雑なんだと、七不思議のひとつに数えてもいいなぁと思ったことを覚えている。2年生で提出した課題に関しては、名画の模写というテーマがあったにも関わらず、自分の好きな時代小説の挿絵らしきものを提出してのけた。まぁ彼女にとっての名画なら間違いでないかもしれないけれど。
3年生の夏休みの課題は、紙粘土で人間の動きのあるポーズを作ってくることだった。みんな大抵は野球だとか走っているなどスポーツをしているところを提出したのだけれど、スミコちゃんの作品は、良く言うとなんだか分厚いジンジャーマンのようなもの、悪く言えば呪いの藁人形のようなものが大の字に寝そべっており、おまけに四肢はなぜが分裂していた。
夏休みの課題は彼女の代表作だったのだが、その他の日々の美術の授業での彼女の作品はなんだかこう崩壊しているものが多かった。
しかし、ここではっきりと世の中の不条理を知ることになる。
スミコちゃんの中学の成績は美術を含め、美術を含め・・・オール5だったのである。
後で知ったのだが、大人の事情(?)というやつで、彼女は進学希望で勉強もよくできたし、美術も「5」にしたということだった。
不可解で不条理。
ちょっとくらい「4」でもいいじゃん。
彼女については武勇伝も多いので機会があれば、何か書きたいな。
幼なじみのモッチャン。
幼なじみのモッチャンは、美容師だ。
昔は東京の名だたる名店で働いていたけれど、今は自分の母親がやっていた街の美容室を継いでいる。おしゃれな美容室がたくさん増えたのに、頑固なモッチャンは改装もせずに母親のやっていた昔の美容室をそのままにしている。
モッチャンの美容室に行くと、モッチャンは決まってヒマそうにスタイリングチェアに腰かけて煙草を吸いながらテレビなんか観ている。くるくる坊主頭に真っ白なタオルを巻いて、「おう」と気だるげに振り向いた無精ヒゲ面は竹原ピストルそっくりだ。
「で、今日はどうする?」自分の座っていたスタイリングチェアに座らせて、モッチャンは訊いてくる。見た目は竹原ピストルだが、腕は確かだ。噂では自分も耳にしたことはあるような東京の名店で働いていたらしい。髪を彫刻のようにカットして要望通りかそれ以上の形にしていく。仕上がりは大満足。
腕は確かなので、店を今どきのサロン風にしたらもっと客も入りそうなのに、モッチャンは今のままで良さそうだ。当然、若い女子の客なんかいなくて、おばあさんかおばさん、小学生のチビッコぐらいしか客はいない。正直もったいないなぁと他人事ながら心配したりすることはある。
モッチャンは現在、彼女もいないらしく独身で、モッチャンの母親も心配しているともっぱらのウワサだ。
そんなモッチャンだが、中学、高校の時は女子にモテてモテて仕方がなかった。バレンタインデーにはチョコレートを段ボール箱に3箱分女子たちからもらい、卒業式には記念に何かくださいと女子たちが群がり身ぐるみをはいでしまったせいで、上半身裸で帰宅する羽目になったというモテてしかたがありませんでしたという逸話がある。当時母親がやっていた美容室は土日になるともしかしたら一目だけでも見ることができるかもしれないという、モッチャン狙いの女子の客でいっぱいになり大盛況だった。
今やガランと静かな店内。以前見かけた小学生男子の客は、帰り際にモッチャンに、「おう、オマエ、自分の髪の毛ぐらい掃除していけや」と男の子にほうきとチリトリを渡して床に散らばったカットした髪を掃除させていた。(その分カット代は安くしているみたい)
そういうところが、なんか、なんかいいなぁと思ったりする。
そんなモッチャンは今日も店でくりくり坊主頭に白いタオルを巻き、スタイリングチェアに腰かけてタバコを吸いながら、テレビを観ている。
ゴウさんの水虫。
水虫治療は凄まじい進化をとげたと言っても過言でない。テルビナフィン(ラミシール)の登場で、カサカサ水虫から果てはウェッティーなものまで、この特効薬のおかげで最近の水虫はなりを潜めることとなった。完治の難しかった爪水虫までもが、飲み薬が開発されてひとたまりもない状態だ。
そんな水虫日照りの折も折、いまだに水虫に悩まされている男がいる。
夏になるとまぁ足の甲まで広がって見るも無残なことになるので、こちらも見るに見かねて「今、良い水虫の薬あるよ」と言うのだけれど、「これは水虫ではなーいッ!」と本人は言い張る。いやいや、正真正銘の水虫だし、しかもかなり広がっているし。後日、水虫をこじらせて、一緒に行った旅行先で38度の高熱を出すことになったりした。その後も事あるごとに、ラミシールを薦めていたのだが「これは水虫ではなーいッ。ゴウさん菌だからそんじょそこらの薬では治らんのだッ」となぜか頑なにそして誇らしげにラミシールを拒んでいた。
そんなんで治す気あるんかい。30年近くの関係というからもう、共存関係だからとあきらめているのかと思ったらそうでもなかったらしい。とういうのも彼は鍼灸の学校に通っていて鍼の実習で素足を出さないといけないはめになったからである。
というわけで、冬場もちょっと元気なゴウさんの水虫もとい、「ゴウさん菌撲滅キャンペーン」を実施することとなった。冬場の弱っているときがねらい目だということで、ネットから引っ張り出してきた、リステリンと酢を混ぜた液体に足を浸し、ラミシールでとどめを刺すという治療法でいくことにした。
努力の甲斐があって、ゴウさん菌はあれよあれよという間に、ゴウさんの足の指の間にだけ生息することとなった。けれども、そこからが硬直状態。あれだけ拒んでいたラミシールで治せるものと思ったのか、根気よく塗るものの一向にゴウさん菌は立ち去ろうとしない様子。
これは暖かい季節になるとまた酷くなるのではと他人事ながら心配して、「もう一度ダメ押しで、リステリン酢やってみたら?じゃないと、『こんにちは!春になりましたね❤』ってゴウさん菌が出てくるよ」と言ってみたのだが、どうも面倒らしくラミシールを塗りながら、「まだここに居てるんよぉ」とぶつくさ言っているだけである。
彼にしてみれば、足の甲までズル剥けだったゴウさん菌が足の指の間にちょこっと残るだけの状態になり、ぱっと見は赤ちゃんの足みたいにきれいな肌になったことだけでも快挙なのだ。まぁ仕方がないな、他人の水虫のことまでそんなに心配することもないと思い放っておいた。
そんなこんなでもう6月になろうとしている。
どうやらまだゴウさん菌は健在らしく、「旦那、ここに居ますぜ」となかなか足指長屋から立ち退いてくれないらしい。「これはリステリン酢作戦だよ、もうこれ以上暑くなったら酷くなるよ」
という訳で、決戦は金曜の夜に行われることとなった。
しかし、金曜の夜はそんなことはすっかり忘れて吞み明かした。次の土曜の朝、ゴウさんの足の指の間から飛び出しているものが。
「拝啓 初夏の候、平素はひとかたならぬ御愛顧を賜り、ありがとうございます。その後如何お過ごしでしょうか」
彼らの夏がやってきた。
「情熱ホルモン」
誘われて行ったが、すでにお腹がいっぱいで見てるだけになった。
肉に名札が付いてくるので、何の肉かわかりやすい。
名札は焼いたらダメですよ。
ビビンバ、冷麺サッパリとしてオススメ。
年始の外食はカツカレー。
喫茶店で待ち合わせ。
時間があるので、昼食をとることにする。
メニューは、前から食べたかったカツカレー。
少し辛めのソースだけど、ご飯の上にのった半熟玉子でマイルドになる。